40ヵ国目 ボスニアヘルツェゴビナ

40ヵ国目 ボスニアヘルツェゴビナ

悲しみの足跡を追って

セルビアのベオグラードを

発車したバスは

ボスニアヘルツェゴビナの

サラエボ市内の

セルビア人が住んでいるエリアにある

バスターミナルに到着しました。

このバスターミナル周辺は

セルビア系のボスニアヘルツェゴビナ人が

住んでいます。

正式にはセルビアではないので

キリル文字ではなく

またローマ字の世界です。

路線バスにて市内に向かいますが

同乗した少年たちは

別れ際に

「チャオ」

と挨拶をしていました。

イタリア以来久々に聞きましたね。

冷房設備がなく

むさ苦しい車内の

老朽化したバスは

銃弾の跡が残るマンションを

横目に

街に向けて

丘を下っていきます。

ボスニアヘルツェゴビナ紛争

かつてこの地でも

紛争が起きていました。

ユーゴスラビア解体時に

起きたこの紛争では

セルビア人による

スルプスカ共和国

サラエボの街を取り囲むように

存在している丘に陣取り

街に向けて砲撃したようです。

僕の泊まった宿にも

当時の写真や

図での説明がありました。

また街のいたるところに

今でも

紛争の跡が見られます。

サラエボのバラ

街への砲撃により

多くの人が路上で殺されました。

現在、道路上では

砲弾が落ちた地点に

赤いペンキが塗られています。

血を模しており

かなり生々しいですが

悲惨な事実を

忘れないためにも

こうやって目に見える形で

記憶を残すことが重要なのでしょう。

しかし、

最近は道路の改修工事で

サラエボのバラは

減っているようです。

銃弾の跡

街中には銃弾の跡が残る

建物を多く見かけます。

本当にたくさんあります。

ありすぎて悲しくなります。

歴史を色褪せさせないために

残しているのかもしれませんが、

穴だけ埋めて

その部分だけ色が変わっている

建物も見かけます。

つまり意図的ではなく

仕上げの塗料を塗るほどの

お金がないのかもしれません。

永遠の炎

1984年のサラエボオリンピックの時から

消えることなく燃え続けているそうで、

内戦による犠牲者の為に

また

第二次世界大戦後にドイツから

解放されたことを記念して

燃え続けているようです。

ちなみにオリンピックの聖火とは

関係がないそうです。

サラエボ事件

続いて

ラテン橋という

サラエボ事件が起きてしまった

場所を見てきました。

サラエボ事件を簡単に説明すると

第一次世界大戦の

開戦きっかけになってしまった事件です。

当時ボスニアヘルツェゴビナを支配していた

オーストリア・ハンガリー帝国の

皇帝継承者と妻が

サラエボに視察に来ていましたが

ボスニア出身のセルビア人に

よって暗殺されてしまいました。

もちろんオーストリア・ハンガリー帝国は

激怒します。

その結果、宣戦布告をし

第一次世界大戦が

始まってしまいました。

…。

…。

しかし、他国に支配されている状況で

その国の人間が

視察に来たら快く思わないでしょう。

さらにその視察日は

ヴィトゥスの日と言う

セルビアにとって重要な祝日で

より国民の気持ちを

逆なでしてしまったようです。

もはやどちらの国が悪いのか

僕には判断できませんが、

人を殺した

暗殺犯だけは

悪であることに違いないでしょう。

他にやり方はなかったのかもしれませんが…。

まとめ

この国でも暗い戦争の

爪痕がたくさん残っていました。

次回は明るく楽しく

ボスニアヘルツェゴビナ観光編です。

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